マイ・スイート・レモネード

かみさまに喩える

信仰の自由(再)

先日はなんというか、すごく観念的な文章にスターをいただきありがとうございました。一連の騒動をゲラゲラ笑いながらもそれなりに病んではいたんだけれども、推しのラジオを聞き、現場に通い、別ジャンルの友人にひと通りカウンセリングをしてもらったところでようやくこころが落ち着いてきた。

怖かったのは、変化。こんなしょうもないことでわたしが好きで信仰してきた推しの姿がなにかひとつでも変わってしまったらと思うと怖くてしょうがなかった。推しはさすがにメンタルがつよすぎて夜道だけは気を付けてくれ〜〜とヒヤヒヤしてたものの、この目で見た推しの姿も声も、何度だってだいすきだと思うところは、まあなにひとつ変わらなかったので。わたしが楽しきゃそれでいいかな、という結論に無事に至る。

この件で怒ったり悲しんでいるひとを否定する気はなかったので前回の記事を消したのですが、声がデカい推しのどんな発言も行動も疑って憶測をどんどん肥大化させていく(元)同担のことだけは理解できないし、受け入れられないので、これからも気持ちを強くもつために改めてネットの海に残しておこうと思った。

わたしが知っている推しだけがわたしのかみさま。推しを好きで今日も明日も毎日たのしい!!

(8/6追記)件のラジオをきいた。いろいろあるけれどわたしはもう推しがわらって健やかに生きてくれさえすればそれでいいです

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(7/24)
このタイミングでこれを書くというのは、つまりまあそういうことだ。わたしはシンプルに性格がクソなので、界隈が荒れに荒れているのをゲラゲラ笑ってみている。

ガチ恋でもお花畑でも善良なファンでも正しいオタクでもなく、推しがつくりあげた"推し"という哲学、つまり偶像を信仰する信者なので。(そういう発言を電波で流すという決断をした関係各所に)衝撃はうけたけど、まだ十分に解釈の範囲内だ。取捨選択、このタイミングでこのことばを発すること。あーーなんてうっかりさんで狡猾で頑固な、うつくしいわたしのかみさま。

これから、なにがどう変わっていくのかは分からない。なにひとつとして、変わらないのかもしれない。

同担の、推しに対する憶測や罵詈雑言をぼんやりと流し見ながら、梨木香歩の『春になったら苺を摘みに』の一節を何度となく唱えていた。理解はできないが、受け容れる。このひとたちはまるで同じではないけれど、たしかに似た感情で推しのことを眺めていたはずなのに、いまはまるで違う言語を話しているみたいに遠い隔たりがある。かわいそうなのは一体どっちだろう。

推しが提示してくれたこと以外、わたしは推しのことを何も知らないけれど。相好を崩して、ひとみをあまく溶かした表情。どうしようもなく、柔らかくひびく声。誰にも教えはしないけれど、わたしだけが知っているいくつかの瞬間がある。そんなことを言えるくらいには、時間とお金を費やして、推しが表舞台にたつ姿を見てきた。

わたしはわたしの人生を救うために、推しを推している。だから、せめて世界がどうか推しにいちばんやさしくできていますように と、今日も1ミリも揺らがずに願っている。きっともう天地をひっくり返す出来事がない限り、そうやって一生信仰してしまうんだろう。