マイ・スイート・レモネード

かみさまに喩える

踊るか死ぬか

推しを世界の中心と定めた日をいまでも鮮明に思い出せる。たまたまチャンネルを合わせたTOKYO MXで見つけてしまった、名前すら知らなかった男の子。一目見た瞬間、顔と声と語彙、仕草ぜんぶがストライクで、これはもうダメだと思った。目を細めて線をえがいて、この上なくやわらかい表情をつくってそのひとがわらうから。この世のしあわせがぜんぶつまっているみたいな、やさしい声色で。

推しのことがだいすき。ラジオもテレビもアニメもゲームも、思い出したようにそっとプライベートを教えてくれるTwitterも、すべてがわたしの生活の一部として根付いている。推しがふとした瞬間にこぼしたことばや表情を何度も反芻しては、じんわりと泣いたりする。わたしの宗教。しんじるかみさま。

世界一うつくしい曲線を描く後頭部のフォルムとか、セリフを読む合間、ひと呼吸置くたびに小さく上下するちょっとなでた肩とか、どんな毛色の違う仕事であっても真摯に、全部たのしいと言葉にしてみせてくれるところ。推しのかかわるものに触れるたび、何度だって好きが更新されていく。ずっと、なにひとつ変わらない。

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違和感のきっかけは昨年8月の現場だった。推しの名前を冠した、特別なイベント。推しと普段から仲の良いひとばかりが集まって、それは大盛況だったように思う。楽しげな声がさざめいているなか、わたしだけがひとりぽつんと取り残された心持ちで壇上をぼんやりと眺めていた。

はじめてみた姿が、めいいっぱい甘やかされてしあわせそうにわらう顔だったから。推しがそんな感じにふわふわとわらっていられる世界であればいいと、いつだって傲慢に願っている。わたしは、(たとえ推しがどう思ってようと)仲間内での過剰な下ネタも推しへの雑な無茶ぶりも、なにひとつ面白いとは思えないし、何より”そういう役割”と推しをカテゴライズされるのが耐えられない。推しを取り巻く環境と勝手に抱いた理想の乖離を、いやというほど気づかされた。

推しがいて、毎日がしあわせで、それだけでいいのだと言い聞かせて通い続けていた現場がある。シャブのように軽率に現場厨をしているが、通うのは琴線に触れるものだけと定めたルールに、ただひとつだけ背いているもの。だってそれは、推しのいっとう特別だから。

楽しいこともたくさんあった。一昨年の舞台では体中の水分がすべてなくなるんじゃないかってくらい感情を揺さぶられた。けれど、気づいてしまってからは、いやなことばかりが目につくようになってしまう。現場にいくたびに、推しからそれらにかかわる言葉を聞くたびに、居心地の悪さを感じて、もうひとりの推しに傾倒し、少しずつ現場から足が遠のいていった。

推しがたいせつにしているものを、推しを大切に思うみたいにたいせつにしたかったのに、どうしても上手にできないことがしんどい。わたしにとって推しという呼び名は、優劣のつかないいちばんの表し方だった。特別にしたいただふたり。現場の数がすべてではないけれど、これからも見たいものは変わらずに摂取していくけれど、推しのたいせつを理解できないわたしはもう、推しと推しを同列には、語ることができない。

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推しのことがだいすき。せかいいち幸せでいてほしい。ずっと目じりをさげたあの表情でわらっていてほしい。その気持ちはいまもなにひとつ変わらないけれど。推しを「推し」と呼ぶのは、これが最後だ。