マイ・スイート・レモネード

かみさまに喩える

かみさまほとけさま

今日は遠方から彼氏と遊びにきていた友人の結婚のごあいさつを受けていて、別れたその足で、衝動的に縁結びの神さまこと東京大神宮に向かう。こんな雨の日でもあらゆるものと縁を結びたい妙齢女子で賑わっているなか、結局神さまに祈るのは神さまのチケットのことなんだから、わたしはもうどうしようもない。

お参りが好きだ。明確に定めている訳ではないけれど、1ヶ月に1度は諸々のチケットのお礼と今後のさらなるご協力をお願いしにいく。大神宮のご利益のほどは正直よく分かっていない。倍率の高いものは当たり前にまあまあ外れるし、最前ドセンが来たと思えば最速先行で最後列を引くこともある。
ほんとうに毎度宗教色が強くて自分でもどうかと思うが、信仰している宗派は"すがれればなんでもいい教"なので、定期的に足を運ばないとなんとなく心許ないという感じ。根っからの信者人生である。

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(ほとけさまのこと)

推しと同じ現場にいることが多く、並んでいるときは正直ほぼ視界にいれないくせに、推しがいない場所では常に目で追っている、男の子がいる。なんだったら今年は推しのひとりより断然多くの現場に通っている気がする。いつも目じりをこれでもかって下げて、会場を見渡す表情がたまらないので、ひそかに、ほとけさまと呼んでいる、まぶしいひと。わらうたびに後光がさしてみえる。かみさまとは 呼ばない。

呼び方に特別意味をもたせている訳ではない、というか哲学的な違いはあんまり理解していない。けれど、ニュアンスが違うのだ。推しではない、だって順位をつけてしまう。推しじゃないけれど、あの真摯な声にすがっている。救いを求めている。きみがいないと、生きていけない。

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結論、ただのくそDDの話をしています。しんどいことがある度に仕事をむりやり切り詰め、軽率に現場の予定を入れ、救われては、すこしだけ後悔する。一神教のオタクは高潔で羨ましいといつも思う。勝手に後ろめたさも感じている。そして、生きづらそうだと思ってしまう。
心の安寧には信仰先が多いに越したことはないとわたしはわたしのオタク人生でさとった。正当な対価を払い、できるかぎりの誠意を持って、ただ片隅で崇拝をしているので、どうか多神教をだれにでもなく許されたい。