マイ・スイート・レモネード

かみさまに喩える

無神論

今日は推しの現場だ。昨日今日と推しはとんでもなく怒涛のスケジュールが組まれている。ステージのあとに体調を崩したりするとかっこ悪いから、という言で体力をつけようと意気込んでいた姿が、頼もしくていじらしくて とてもすきだなあと思う。

そしてわたしも今ごろは、推し推しがおんなじステージで並ぶ最高の光景をなんとかもぎ取ったチケットで眺め、ちょっと泣いたりとかしている予定だった。が、結論から言えばチケットはネットの海をわたり、わたしはこうして東京でひとり、会社にこもって恨みつらみをはいている。

先月末に部署移動があり、それに伴って今後の土日休みがほぼ消えた。正確には土日に出勤しなければ仕事がまるで回らなくなった。気をつかってもらえるような新入りでもなければ、守るべき家庭がある訳でもない。そりゃあ社内での優先度は低い。理解はできる。しかし納得できるかと言えば別問題だ。わたしがどれだけ、この日を楽しみにして、毎日を乗り越えてきたか!なんて泣きわめくこともできない。死ぬほどくだらないことを言っているのは重々承知のうえで、それでも、行きたかったものは行きたかった。

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ここ最近、オタクの上がりどきをいつも考えている。オタク以外を経験していない人生なのでまったく想像はつかないが、数年後の推しの節目*1を機にきっぱり見切りをつけ、あとは余生という感じで地元に戻ったりしておだやかに心乱さずに、丁寧な暮らしなんてものを送りたいと思う。

思ってはいるものの、年々、現場数は増加している。今年は上半期だけで2016年をゆうに超えた。頑張るための活力をもらいに行く権利を得るために、頑張って毎日働く。オタクをしていないと、何かにすがっていないと、どうやって日々を過ごしていけばいいのか、年を重ねていい大人になってもさっぱり分からないままだ。

堂々巡りの答えをいつも探している。極端な話、あした推しが舞台上から姿を消し、一切の消息が分からなくなったとしても、わたしの毎日は続く。毎日働いて、お金を手にして、家賃を払いご飯をたべて、ちゃんと人生を歩む義務がある。そうしなければ悲しませてしまうひとが、少なからずいる。

けれど、わたしは絶対に別の信仰先を求めるんだろう。当分は泣いて、しんだように暮らして、いつからかまるで初めからなにもなかったみたいに、新たな神さまにすがって。

このままずっと推しに盲目なままでいたい。何にもすがらない人生を歩みたい。推しが、推しだけが、わたしの最後のかみさまだったらいいのに。

*1:30歳ごろには結婚するというラジオでの発言